2020-05-20 第201回国会 衆議院 外務委員会 第8号
中川一郎先生の後を受けて選挙に出馬して、鈴木宗男でございますと後援会の幹部に挨拶に行った。これは松山さんが言っていましたけれども、挨拶をしようとしたところ、鈴木宗男、ばかやろうといってグーパンチで思い切り、松山千春さんが自分が殴られるんじゃないかと思ったんですけれども、鈴木さんの顔にがんといったということですが、その後に鈴木宗男さんは、鈴木宗男でございますとその手にしがみついた。
中川一郎先生の後を受けて選挙に出馬して、鈴木宗男でございますと後援会の幹部に挨拶に行った。これは松山さんが言っていましたけれども、挨拶をしようとしたところ、鈴木宗男、ばかやろうといってグーパンチで思い切り、松山千春さんが自分が殴られるんじゃないかと思ったんですけれども、鈴木さんの顔にがんといったということですが、その後に鈴木宗男さんは、鈴木宗男でございますとその手にしがみついた。
中川一郎先生もこの日米交渉をやって、あるいはIAEAの原子力協定なんかもまとめて自民党の総裁候補になったと思っていますね。橋本龍太郎先生もカンターさんとのこの会談を終えて、翌年、総理大臣になりました。
この通産省勤務時代に、当時通産大臣であった安倍晋太郎先生と、北海道のリーダー格であった中川一郎先生に勧められ、政界入りを決意されたのであります。 その際、父金五先生からは、本当に政治家なんぞになりたいのか、余り感心しないね、一生涯、官僚として国家国民のために尽くすべきではないかと強く反対されたそうです。
その後、中川一郎先生の遺志を継ぐ一人として衆議院議員選挙に挑戦し、一敗地に塗れましたが、渡辺美智雄先生のご支援のもと、遂に昭和六十一年の衆参同時選挙で大願が成就したのであります。初登院一番乗りで赤じゅうたんを踏んだあの時、生涯忘れ得ぬ感激とともに、胸のバッチが実に重く感じました。
中川一郎先生が、温室に大木なし、寒門に硬骨ありと、よく我々に教えてくれましたけれども。しかし、山田副大臣は五島列島だから、必ずしも暖かいところからしっかりした人が出ないとは言えないと思いますけれどもね。
総理は覚えているかどうかわかりませんけれども、今から二十九年前です、初めて総理が選挙に出たとき、私は中川一郎先生の秘書をやっておりまして、山崎平八郎という先生がおりまして、応援に行ったんです。ちょうど二時間、時間があきました。
私は、通産省勤務時代に当時通産大臣であられた安倍晋太郎先生と、北海道のリーダー、中川一郎先生からお勧めを頂き政界入りを決意致しました。其の時は、参議院自民党議員会長であった父、町村金五は、政治の世界は厳しいものだと言って、私の政界入りには強く反対しておりました。しかし、私が一年半の準備期間を経て初当選出来た時、最も喜んでくれたのも父でありました。
そうした中で、中川一郎先生を初め、多くの政治家の薫陶を受けられたことが、政治を志すきっかけになったと伺っております。 また、当時、農林大臣であった安倍晋太郎先生が、食料危機的な背景があったその時代に、恐らく我が国で初めて「攻めの農政」という言葉を使われました。
質問に入る前に、私が人生で唯一この人のためなら死んでもよいと思った中川一郎先生に一番近い人である中川農林水産大臣にお尋ねする機会を得たことを、関係者の皆さん方に深く感謝申し上げます。 四点、お尋ねいたします。役所の方々のお考えは自民党の農水部会でお聞きしておりますので、できれば、大臣、副大臣、政務官の方にお答えを願いたいと思います。 一つ、林業の不振について。
私は、数十年前、大臣の父君の中川一郎先生の薫陶を受けました。こういう形で議論をさせてもらうというのは、大変光栄であると同時に、何か面映ゆい感じがしてございます。きょうは一般質疑でございますので、二つの観点からちょっと議論をさせていただきたいと思います。
佐藤栄作先生、佐藤信二先生、それに中川一郎先生の下で修行をさせていただき、岡山一区より初出馬したのは昭和五十一年の総選挙であり、その時、私は三十代の半ばでありました。 自民党の公認も得られず、全くの無所属で出た私は東京育ち、学友も竹馬の友も皆無、文字どおりの徒手空拳での旗上げでありました。 結果は九人中最下位、供託金没収という結果でした。
これは政治家として私も足らざるところも多いもんですから、意見の交換やあるいはまた指導を受け、意見交換、議論をし合ったということの過去を考えてみると、いつも話し合ってきたことは、これはもう安倍先生や中川一郎先生とも話し合ったんですが、通産省の役人というのは日本の役人の中でも最も図太い、いい意味でですよ、野武士的であると。
私は、やはり北海のシロクマ中川一郎先生は、ある意味で非常に正義感があり、最期非常に痛ましい亡くなり方をされましたけれども、私は非常に尊敬をいたしておりました。それは、やはり自分を処することに対して非常に厳しい方だったんじゃないかと思うんです。まして、何ですか、今北海道で参議院に出てこられるような、スキャンダルめいた、ある意味で、その秘書もしておられた鈴木宗男とは全く違う人ですよね、全く違う人。
父上のときから、北海のシロクマと言われる中川一郎先生ですね。私は非常に正義感の強い方だったと思います。 そういう中で、やはり自分の責任はだれかに任すんじゃないんじゃないかと私は思うんですね。福田さんは最終的に自分で責任を取られたと。それくらい閣僚というのは私は重いものだと思うんですね。だから、自分の身柄は任命権者の小泉さんに任せたということではないんじゃなかろうかと。
○砂田大臣政務官 中川一郎先生の秘書をされていたころからのつき合いでありますから、別に、特別どんなつき合いという中身的にあるものでもありません。顔見知りで、知り合いだということであります。
私が中川一郎先生の秘書をしていたころからでありますから、三十三年の付き合いでございます。兄弟同様の付き合いでございます。中村博彦さんか中村健さんが川島町の町長選挙に出る、しっかり応援せいと、当時、野中広務先生から命令みたいな話があって以来、今日知っているということでありますと、いかに仲がいいかということを言われています。
○鈴木証人 犬飼さんにつきましては、また渡辺さんにつきましても、私がかつてお仕えした中川一郎先生時代からの知り合いであります。 犬飼さんにつきましては、昭和五十八年から、私が最初に選挙に出たときからお世話になっております。
○山岡委員 その秘書官は、これは今度の田中辞任の問題について、言うなれば官房長官や総理と相談して、また、鈴木議員とは昔の、それこそ清和会の秘書仲間、中川一郎先生の秘書、そういうときの秘書仲間、そういうところとやってこれをうまく更迭したんだと、まるで自分の手柄のように言っているみたいですけれども、そういうことはあるんですか、総理。
○武部国務大臣 私の師匠は、三木武夫先生、中川一郎先生、渡辺美智雄先生、尊敬する三人の師匠がいるのですけれども、三人の先生も異口同音に、政治家にとって一番大事なことは、国民に対する政治家としての責任だ、こういうことを申されております。ですから私も、政治家としての責任のあり方ということについては重大に受けとめているわけでございます。
とりわけ、私、テレビでしか今まで拝見することがなかったんですが、子供心に、故中川一郎先生、私は少年時代テレビで見ていたときに、この方は必ずや総理大臣になられる人だろう、少年の夢を語る中で非常に印象に残っている政治家のお一人でございまして、そういった意味では、その薫陶を受けていらっしゃる平沼大臣、前向きな、創造的な、子供たちに夢を語っていただけるような経済産業省であっていただきたいという思いできょうは
冒頭、私の政治の師である中川一郎先生のことをお話しいただきまして、私も委員と同じように、中川一郎先生が日本のかじ取り役になると日本も大きく変わるな、こういう認識を持っておりましたので、大変ありがたい気持ちで拝聴させていただきました。 今回、中央省庁の再編がございまして、御承知のように一月六日から、従来、通商産業省と言っておりました我が役所が経済産業省になりました。
当時、大臣の御尊父である中川一郎先生は、まさに日本を代表する政治家として、憂国の至情を持ち、そしてまた農林水産業の振興のために大変な御熱意を傾けておられました。